日蓮聖人
再興正導日隆聖人
- 門祖日隆聖人
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日蓮聖人死後100年も経つと、日蓮宗も形骸化してきます。
日隆聖人は、法華経の教えを率直に読み直し、歪みを是正した「法華宗」を興します。
日蓮宗を再興して正しい方向に戻した方として「再興正導門祖」と尊称しております。
門祖日隆大聖人は、今を去ること631年前の、至徳2年、富山県浅井郡島村にお生まれになれれました。12歳で入寺、14歳でお祖師様の系統を引く京都妙顕寺に入寺されました。
しかし、妙顕寺は月明一派の本迹一致の邪義に汚されており、これを折伏するも、用いられず、寺を追われる身になりましたが、高祖の教えの正義を守り通して、近畿・北陸・中国・四国方面に現証布教をされ、八品門流の祖となられました。
寛正5年(1464年)2月25日、80歳の化導を了えられた日隆聖人は、皆の見守る中、正座唱題のまま、入寂せられたのであります。
(平成28年2月門祖会での言上文より)
(轉教平成28年4月号収載) 毎月25日には門祖聖人の御命日としてお総講を奉修しております。
また、毎年2月には、お会式(門祖会、門祖日隆大聖人御開山会式)を奉修しております。
開導日扇聖人
開導嗣法第三世日随上人
- 第三世日随上人
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大正9年12月12日 御遷化
日随上人という方は、普段あまりなじみがありませんが、明治の後半期、関東のご弘通草創期には、清雄寺の日教上人が関東のご弘通の土台を作って下さった、その日教上人が明治45年に御遷化になる、その後継を誰がやるのか、ということが決まらなくて、一時混乱状態になりました。
東京の乗泉寺、広隆寺、清雄寺の三ヵ寺がそれぞれ中心だったんですけど、大正初期にはそのお互いの関係がぎくしゃくしてました。日随上人が、それをそれぞれ分かれて支部を作ってご弘通に専念しなさいということで、東京第二支部を乗泉寺に作ることを許可することをお決めになられます。大正7年には、京都から東京に御巡教になれて、乗泉寺で、私たちが現在奉安させていただいている大御本尊を御染筆なさったのです。それを代々護ってきたわけです。
その後の大正9年に日随上人も御遷化になられてますので、それから数えると令和元年は丁度百回忌ということです。この百遠諱を、この様にご焼香させていただけるというのは、われわれはおかげさまで100年を超えて佛立講の信心の伝統をまもり続けて来たという事ですから、このご本尊を毎日拝ませていただくと同時に、そういう先師上人のおかげで今がある、ということを改めて噛みしめていただいて、同時に100年ということはご奉公者の世代で言えば三代から四代も時間がかかっているわけです。それを超えて伝承されてきた御看経の仕方、ご利益のいただける信心というものをまた次に伝えていかないと、この先、100年伝わっていってくれれば、有難いので、われわれは次に伝える役目を持っているのだという事を念頭に置いてこれからのご奉公にお気張りいただければありがたいと存じます。
令和元年12月13日お総講ご法門より
関東開発・御牧日教上人
- 日教上人
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開導嗣法第四世・乗泉寺第十五世住職。
1854年 生まれる
1910年1月17日 御遷化 56歳
平成23年に関東開教日教上人の御百回忌をむかえました。日教上人は佛立講が開講された安政(あんせい)4年ごろにお生まれになり、京都に広まった佛立講を東京へもたらした偉大な功労者です。
明治政府によって、政治や文化の中心が東京に移されていく佛立講を東京に広めることはとても重要な意味を持っていました。当時はまだ武家社会の慣習が根強く生きていた封建的な世の中で、そこから日本国という近代国家を築き上げるために、政府はヨーロッパを参考にキリスト教によってヨーロッパ全体が統治されてきたように、日本にも国家的宗教による土台が必要であると考えていました。明治政府は日本における国家宗教は神道であるべきと考えていました。
仏教は、日本で長い歴史をもっているにもかかわらず外国から伝わった宗教として廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)【神社と習合していた寺院の仏堂,仏像,仏具などの破壊・撤去をして、釈迦(釈尊)の教えを壊(毀)す運動】が行われていました。その苦難の時代に、東京に出てきて佛立講のお寺を作るというのは、想像を絶する大変さでした。しかし、日教上人は上京して政府の宗教を司る省庁の役人にもなり、佛立講の東京への定着を図ってこられました。大変なご苦労をなさって、本所の清雄寺、麻布の光隆寺と乗泉寺の三ヵ寺を法華宗から借り受けて、佛立講のご弘通の土台を固めていきました。
このように日教上人は佛立講発展の大きな功労者なので、我々は日教上人のおかげを忘れないよう、毎年一月には祥月命日の法要をさせていただいております。
(平成29年1月17日 開導嗣法第四世日教上人御祥月法要にて御導師のご挨拶より)